牧野信一
底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
2003(平成15)年5月10日初版第1刷発行
初出:「日本評論 第十巻第十二号」日本評論社
1935(昭和10)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
牧野信一
熱を挙げてゐる傍から、冷言を浴せられては堪らぬだらうと寧ろ私は、阿父の心懐に加担した。――が、そんな当面のことには私などは要もなかつたし、家庭の雰囲気も何うやら息苦しくなつたので、大学生になつて多少の憂鬱も知り始めた私は、休暇で帰省しても故家には落つかず、大概熱海の山荘へ赴いて本を読んだり、小説体の如くに会話などを挿入する日記などを書いてゐた。ハネ釣籠の井戸があり梅や柿木の繁つてゐた草葺屋根の家が、アメリカ風の至極簡粗なカツテーヂに改装されて、阿父の外国友達の家族が料理人(コツク)などを伴れて訪れた。阿父は、それらの友達と捕鯨船へ乗り込んで遠洋航海へ赴いたり、ボルネオ地方へ鰐狩りへ行つたりしたが、
「これ位ひの道楽は、余興のようなものさ。」
などゝ云ひながら、三月か半年で引き返すと、相変らず折鞄を抱へて、不思議とあんな深刻(グルウミイ)な眼を輝かせながら車を飛してゐた。おそらく獅子の遠吠えが聞えたといふジヤングルに天幕の夢を結んでも、大鯨を獲り逃して残恨の胸を叩きながら酒場に酔ひ潰れても、おゝ、あれらの故山の、あれらの山々がそうしてゐる間にも刻々と切り崩づされるに随つて金貨を積んだ橇の音が次第々々に近づいて来てゐるのだといふ素晴しい夢に誘はれてゐたのである。私などにしろ、何も知らぬ青少年であつたが、漠然とした幸福のようなものを感じないでもなかつたが、稍ともすると昔描き慣れて、今だつて筆を執りさへすれば大概の姿なら即座に描きこなせるフリガンの活動画が歴起として眼の前にチラつくのであつた。フリガンの表情は、歓喜に炎えた時でも、悲境のドン底に墜落した時でも、或ひは稀にいさゝかの成功に反身になつた場合でも、常住不断に変化を知らぬ丸い眼と稍突り気味の口吻と、そして缶型の赤い帽子だけは決して落とさぬ姿勢なので、模写の手際も別段六ヶしいわけではなかつたのだ。私は、思はずもそんな連想を劃てる自分を秘かにウソ寒く慨嘆しながら、幾組となくつくつた連続画の憶ひ出を、どうやら益々詳細に吾阿父の上に対照せずには居られなかつた。
「あはゝゝゝ、あはゝゝゝ、お前の画はほんとうに巧いよ、さて、これから缶ちやんがどうなるのか、あたしは来週が楽しみでならない。あはゝゝゝゝ。」
と、私の幻灯を観ながら、そのまゝ醒めぬ眠りに陥入つてしまつた慈はしき婆さんの笑ひ声が、あらためて私の耳の底に蘇ると、何やら私はあれらの無稽至極と思つてゐた人生諷刺の微風(そよかぜ)が眼のあたりに吹き出したとなど思ふのであつた。阿父も表情の乏しい貌だつた。何故か笑ひ声は思ひ出しても、笑ひ顔は想像成し難かつた。――私は、あれこれと対照すればするほど、あれらの滑稽なる諷刺画がそのまゝ吾が生活の眼前に展開するかの如き、云はゞ恐怖症に襲はれさうであつた。私は、次第に憂鬱であつた。私は、滑稽を認めて、笑ひを知らぬ悲惨に堕ちた。どうやら自分の表情も、頭の缶型を落さぬ程度の奇妙に生真面目気なる木石に化したかのやうな思ひである、単なる真面目気なる表情の奇怪至極さは、一種の壮厳なる、然して永遠に模糊たる滑稽美に満ちたるものと考へざるを得なかつた――私は、肉親に対する自己の観照眼に関して、余程不道徳的なる苦悩にさいなまれたと見えて、そんな風に、厭に勿体振つた感想を手帖に記してゐた。