牧野信一
底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
2003(平成15)年5月10日初版第1刷発行
初出:「日本評論 第十巻第十二号」日本評論社
1935(昭和10)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
牧野信一
私が中学二年の春休みに、熱海から祖母を迎へ返すと、途中で三度も手をひいて降りなければならない程の状態となり、家に戻つてからは寝たきりになつた。私はその枕元で昼となく夜となく、アメリカの父から来る新聞や手紙を読み聞せた。私は六歳の時からカトリツク教会のイギリス人に伴いて読み書きを習つてゐたので、もうその頃は外国からの少年雑誌(セントニコラス)や新聞の日曜漫画など、即座に日本語に移しながら朗読が出来た。人気者のハツピー・フリガンのことを私は缶チヤンと称び換へて、聴手を笑はせた。その赤い筒型のシヤツポが恰度缶詰の缶のやうだつたからである。私は、その画を早速と例の硝子板に模写して、婆さんの枕元に写し出して、おどけた声色などをつかつた。
「えゝ、こゝに御覧にいれます今週の番組は(缶チヤンと狐)の巻であります。狐の襟巻がはやり出したときいた缶チヤンは、早速一儲けしようと膝を打つて、此処に養狐事業を計画いたしました。例に依つて缶チヤンが如何なる失敗をいたしますかは、次々の幻灯に随つてよろしく御笑覧のほどを……」
他所の人がゐないと仲々能弁な私が、幕の後ろで斯んな説明をはぢめると、婆さんと阿母はもう腹を抱えて笑ひ出した。――或る晩祖母は、あはゝ、あはゝ ――と笑つてゐるので、私は例の如く益々得意になつて次々なるウツシ絵を差し換えてゐると、不図阿母が異様な叫び声で私の名を呼んだ。
祖母は、あゝ、あゝ、あゝ……と未だ笑つてゐるのに! と私は不思議がりながら、傍らの雪洞を燭して枕元に駆け寄つて見ると、あゝ――とわらつた表情のまゝ、息が絶えてゐた。
「あゝツ、お母さん!」
と母が呼んだ。
「おばあちやん/\、どうしたのよう。」
と私も精一杯の声で泣き、その胸にとり縋つた。
「わしや、もう一遍熱海へ行きたいんだが、あのケイベンの煙突をおもふと、直ぐにむか/\して来る。せめてお前の描いた絵でも見て慣れたら、しつかりするかも知れないから写してお呉れよ。」
祖母は、幻灯会を終へようとすると屹度斯ういふので、その時も「フリガンと狐」の連続ものを終つた後で、傑作の汽関車を写し出さうとした途端だつた。電灯がついて明るくなつた襖の境に垂れさがつた白けたスクリーンの上には、走り出さうとした汽缶車の先端がぼんやりと写り放しになつてゐた。