牧野信一
底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
2003(平成15)年5月10日初版第1刷発行
初出:「日本評論 第十巻第十二号」日本評論社
1935(昭和10)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
牧野信一
その代り私は、余興が幻灯会に移つた時にちよつとの間だけ映写技手をやらせて呉れと申出た。花輪車といふロクロ仕掛のウツシ絵が唯一の動く絵で、色絵具で塗つた二枚合せの硝子板が夫々逆に回転されると、恰度万華の花片がむく/\と涌きあがるかのやうに見え、手風琴や竹紙(ちくし)の横笛などが加はる青年バンドに調子を合せて、技手はたゞそれをぐる/\回すだけであるが、次第に急速に進む音楽と共に、いつまでも回つてゐると、見物は鬨の声を挙げて悦んだ。大概それが閉会の合図であつた。私は普段独りで工夫して、誰にも観せる筈でもなかつた手製のウツシ絵を取り寄せて、決心の胸を震はせながらその後で映写した。
「えゝ、こゝに番外として御紹介致しまするのは……」
と専門の弁士が私の名前を口にして、この工夫画を吹聴するのを耳にすると、私の全身は火のやうに熱くなつた。その絵といふのは短冊形の長い硝子板に様々な行列やら軍艦の数々などを描き、一端から小刻みに繰り出して、回り灯籠のやうに多くのものゝ姿を順々に引き出すのであつた。その晩私は、軽便鉄道が今や濛々たる煙りを吐いて出発する一巻や、祝賀の行列が軍楽隊を先頭にして繰り出す光景などを映写した。普段は婆さんと阿母だけが見物人で、私は口笛を伴奏にするだけなのに、その晩は、ほんとうの楽隊が調子を合せて、汽車の歌や、祝賀の歌を奏したので、私は全く有頂天となり、指の先は思はずブル/\と無技巧的に震え、却つてそれが汽車の走り出すさまを写実した如き効果を呈した。スクリーンの向方側には何万とも数知れぬ見物人がゐるやうに思へた。事実この映画は、割れ返る程の人気を博して、同じものを二度も三度も上映させられた。素晴しい楽隊の伴奏があつたからこその面白味だつたのに、忽ち私ばかりが八方から感激の嵐を浴びた挙句とう/\町長さんに手をとられて見物人の前に立たされた。(映写機は幕の裏側にあつて、見物人は反対の表面から見るのがその頃の常例だつた。だから私は技手としての姿を人に見られる心配はないと安心してその役を申し出たのでもあつた。)
半紙大ほどの土地の新聞は早速と「天晴れ牧野少年の発明幻画を讚ふ」といふ大見出しで、その「奇智に富める工夫」を絶賞し、諸名士の感激談までを併載した。それを読んだ婆さんと阿母は声をあげて、嬉し涙に掻きくれ、山高シヤツポを何故か稍あみだ風にかむり、厳然と構えて眼を据えてゐるが、軽く口腔をあけつ放しにしてゐるのが何だか折角の威厳をそいでゐるかのやうなお爺さんの、今はもう大型の額ぶちに収まつた写真となつて物をも言はぬ肖像の下に、三人は頭をならべて平伏し、誉れに富んだ報告祭を営んだ。
「おぢい様が御丈夫だつたら……」
婆さんはそればかりを繰り返した。
「これぢや、登りでも下りでも歩く心配もなけれや、後おしも要らず安心だね。」
私たちは打ちそろつて梅見へ出かけた。ところが真鶴を過ぎるころになると、激しい煤煙と振動のために婆さんも阿母も攪乱を起した。「軽便」の煙突は釜に不釣合に細長くて頂きに網をかむせた盥のやうな恰好のものが載つてゐるので、暴風などにあたつて激しく揺れ過ぎると、中途からポツキリと折れることがあつた。しかし私は、その機関車の姿を指差して、
「ねえ、母さん――スチブンソンがつくつた汽車の画に似てゐますね。」
と好奇心の眼をそばだてた。
「岩吉は機関手になる試験を受けて、落第したんだつてさ。」
と母はわらつた。
やがて婆さんは、あれが出来たから今度こそは何時でも気軽に熱海に行けると悦んでゐたのに、あの煙突と笛の音を思ふと体がすくんでしまふ――と滾しはぢめた。車体の小さいのに比べて、走り出すと恰で馬力(トラツク)が駆け出したかのやうな地響きを挙げ、蒸汽の音は駄馬の吐息のやうに物凄かつた。この物音を聞くと沿道の人々は「それツ、軽便が来たツ」とばかりに駆け出して、物珍し気に見物した。すると運転手は益々得意になつて要もないのに激しい汽笛を鳴しつゞけた。さういふ物見高さに煽られて多くの運転手達は女道楽に身を持ち崩した。